人間関係が楽になる漫画!「こうあるべき」に疲れた人は『違国日記』がおすすめ

子どもの頃、周りの大人は今の自分よりもっと大人だった気がしませんか? 苦手なことなんて何もないと思うくらいに、なんでもそつなくこなしたり、人間づきあいも良好だったり…。

でもいざ自分たちが“大人”になってみると、例えば、人見知りとか、長時間人といれないとか、傷つきやすいとか。大人になった今でも、いまだに苦手なことってありますよね。私たちは、「大人」とか「子ども」とかいう前に、ひとりの意思を持った人間で、苦手なことも・得意なこともあるはずです。

今回紹介する『違国日記』は、大人も子どもも苦手なことがあり、わかりあえなくてもいいということを教えてくれます。人間は誰しもが自分の内面には自分だけの国があり、自分にとっての当たり前や譲れないことがあります。国が違えば、常識も違う。そんな当たり前のことに私たちは、いつも何故か気づけなくなってしまっています。

そんな、もがきながら現代を生きる私たちの心の扉にノックをしてくれるのが『違国日記』なのです。

『違国日記』は、あらゆる業界のマンガ好きが選び、その年の大ヒットのきっかけにもなる「このマンガがすごい!2019」(宝島社)の『オンナ編』では堂々の第4位に選ばれました。

どこかモヤモヤしている人や、人間関係に疲れたという人の肩の力をふっと抜き、読むとずっと生きやすくなる『違国日記』の、おすすめポイントをご紹介します。

『違国日記』のあらすじ

「へんな人と暮らしはじめた。お父さんとお母さんが死んだので。」 
35歳、少女小説家(亡き母の姉)。
15歳、女子中学生(姉の遺児)。
不器用女王と子犬のような姪がおくる年の差同居譚。 
少女小説家の高代槙生(35)は 姉夫婦の葬式で遺児の・朝(15)が親戚間をたらい回しにされているのを見過ごせず、勢いで引き取ることにした。
しかし姪を連れ帰ったものの、翌日には我に返り、持ち前の人見知りが発動。
槙生は、誰かと暮らすのには不向きな自分の性格を忘れていた……。
対する朝は、人見知りもなく“大人らしくない大人”・槙生との暮らしを
物珍しくも素直に受け止めていく。

『違国日記』HPより

『違国日記』は、両親を亡くした少女と、少女の母の妹にあたる叔母が2人で暮らすようになる物語です。血のつながりがあったとしても、理解しあえることもあれば、理解できないこともある。他人よりは近く、親子よりは遠い。

血縁関係あるなしに関わらず、また、年をとっているとっていないに関わず、結局は他人同士で、2人で生きていくにはお互いの理解と妥協が必要であることに気づかされます。

はたから見れば、立派な大人と庇護対象の子どもですが、結局は人間と人間。ひとりの人間として向き合えば、分かり合えたり、分かり合えなかったりするのです。

『違国日記』から学んだ人間関係を楽にする3つの考え方

1)世間一般の「大人らしい」「子どもらしい」という枠からの脱却

「大人っぽい」「子どもっぽい」など、表現としては良く聞きますよね。大人がすべて器用ではないし、子どもがすべて子どもっぽいということはないのに、わたしたちは20歳になれば成人として認められ、自動的に「大人」になります。

本作の叔母・槙生(まきお)は、姪の朝(あさ)から見たら「大人らしくない」存在。片付けが苦手だったり、行儀がわるかったり、出不精だったり。

朝が今まで見てきた一番近しい大人である両親とは大きく違います。朝にとって大人は、感情的にならず、尊敬でき、無条件に自分を愛してくれる存在。しかし、槙生や槙生を通して出会う大人は、大人であっても「傷つく」と言います。槙生は朝を養ってはいますが、両親のように愛することはしません。未成年で、年下の朝を、槙生は人として対等に扱います。

世間の空気でなんとなく「大人らしい」とか「子どもらしい」と決められ、それにそぐわない人たちが「らしくない」と言われます。大人であっても、子どもであっても、得意なこともあれば苦手なものもあります。好きなこともあれば、嫌いなこともありますよね。

「大人」とか「子ども」とかそういう区切りではなく、人として対等に生きる、2人の関係が新鮮であり、羨ましくもあります

2)自分の感情は自分だけのものである

他人同士が同じ屋根の下で生活するのだから、当然、わかりあえないこともあります。特に、朝は無条件に自分のことをわかってくれた両親と暮らしていたわけですから、察してもらうことが当たり前でした。

血縁関係はありつつも、突然そんなに知らない人と暮らすことになり、性格も感情もわかりあおうとしなければわかりあえません。

「あなたがわたしの息苦しさを理解しないのと同じようにわたしもあなたのさみしさは理解できない それはあなたとわたしが別の人間だから」 (『違国日記』3巻 p93)

「うれしい」「悲しい」「怒っている」「驚いている」

全ての感情は自分自身のもので、誰も他人の感情を決めることはできません。他人が何を思っているのかはわかることができないからこそ、思ったことを伝えあう努力が必要ですよね。

3)みんな自分だけの国に生きている

生きてきた場所も時間も交友関係も経験も違う人同士が一緒に生活するということは、「あたり前」の基準も違うということ。みんな自分自身の物差しがあり、自分の行動指針があり、心地よいこともあれば、心地悪いこともある。国ごとに慣習も文化も違うように、みんな自分だけの国に生きているといっても過言ではありません。

朝と槙生のように血縁があろうがなかろうが、わかりあえない部分もありますし、血縁がなくても心から信頼関係を築くことはできます。自分だけの国で生きているからこそ、わかりあう努力をしたければすればいいし、したくなければしなくてもいい。

「こうあるべき」は本当はないはずなのです

自分の心を開くも閉じるも自分次第でいいのだ

1人1人得意なことや苦手なことがあるように、好きな人もいれば、嫌いな人もいます。自分が心を開きたければ開けばいいし、開きたくなければ開かなくてもいい。自分自身で役割を背負わなくても、全部自分で決めればいいのです。

「いい人でいる」必要はなく、わかりあえなくて当然。そう思うと、ずっと生きやすくなると思いませんか?

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